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ドロシーとラリーは正面玄関から階段を上り、中二階から中世の絵画、そしてルネッサンス期の絵画のギャラリーを通り抜けで、一七世紀のオランダ画家のコレクションを集めたギャラリーへたどり着いた。
館内は閑散としていて、ふたりの靴音が響いた。 ドロシーは、フエルメールの絵の前で立ち止まり、「ラリー、この絵を私はとてもすばらしいと思うの。
この女の子の内面からの輝きが、ほかの誰でもない彼女自身であることを証明しているわ」と語った。 中世から近世へそしてレンプラントの肖像画を経て、その人をその人たらしめている内面の光と影が、人物画に表れてくる。
近世における自我の確立とルネッサンス芸術、そして北方ルネッサンスとフエルメールの輝きについてドロシーは語り、ラリー・タンは黙って耳を傾け、「昔、近代美術史の講義を受けたのを思い出すよ」とコメントした。 ふたりは西洋美術のギャラリーを出て、「あなたのおじいさんのギャラリーへ行ってみよう」とラリーが促し、東洋美術のギャラリーへと歩き出した。
「僕の内側は華僑の道徳で縛られ、外側はすべて西洋的な価値体系の教育を受け入れ、その世界の中で生きてきた。 僕の祖父はニューヨークに来てからプロテスタントになり、一家で教会に通い、それに大叔母と僕の亡くなった妻のメイのお祖母さんが教会で知り合って、とにかく教会員として華僑として、何とかアメリカ社会に居場所を求めていたのだろう」とラリーは語り、だした。

「僕自身はクリスチャンではないし、中世からの西洋美術は頭で理解できても、やはり仏像を見るほうがほっとするんだ」とラリーは、大きな仏像が並ぶギャラリーで立ち止まった。 「あなたはヒーリング・メソッドを試したと言ったが、この仏像の微笑こそすべてを包み込むヒーリングではないかな。
僕は、妻が乳がんだということに無頓着だったし、それに、あまりにもあっという聞に死んでしまったので、しばらくは誰にどのように許しを請えばよいかわからなかった。 メイの中国語の名前は(静)といってね、名前の通りおとなしすぎて、空気のようだつたよ」とラリーは静かに語つた。
「実は、アリスが紹介してくれたヒポノテイストに行ってみたのだが、僕はまったく催眠術にかからなかったので、治療にならなかったんだ」。 ドロシーは思わずラリーを振り返り、彼の目を見つめた。
それから、ふたりはオーガスト・ウォング・ギャラリーを通り、中国庭園の中を抜け、再び中二階の回廊に出た。 カルテットが最後のモーツァルトの曲目を演奏していた。
「何か食べたほうがいいね。 食事に行こう」とラリーはドロシーを促し、クロークでコートを受け取り、外へ出るとタクシーを拾った。
ラリー・タンはサトン・プレイスの五八丁目の由緒あるビルに住んでいた。 サトン・プレイスは、マンハッタン島の東側の一角の地域をいう。
かつてはワスプ(WASP)が固まって住んでいたが、いまでもいかめしい建物にはどこか排他的な雰囲気がある。 ラリーは自宅近くのマーチという小さなレストランにドロシーを連れて行った。
マーチは隠れ家的でシックな雰囲気だった。 ラリーは常連客のように、ウェイタ1の薦める赤ワインのボトルを注文した。

ふたりが‘クラスを傾け、コースの品が運ばれてくると、ラリーは、「リスクというのは、実に思いもかけなかったところからやってくるものだ。 メイがこんなに早く病死するなんて想像すらできなかった。
彼女が死に直面するまで、メイはずっと自分とともに生きていると思い込んでいた」と切り出した。 「それは私の人生にとっても同じです。
夫が突然自分から離れてゆくなんて頭の片隅にもなかったわ。 私には結婚以外にも、何か自分で達成できるものが人生に必要だった。
そして、ヘッジファンドのビジネスがそのひとつかもしれないと思ったわ。 でも、そんなことを追求するうちに、本当は、足元からその生活自体が崩れかけていたのです」と、ドロシーも胸のうちを語った。
「ドロシー、あなたは若くて美しく、聡明だ。 あなたの人生はこれからじゃないのかな」とラリーはドロシーを見つめた。
「ときどき話し相手になってほしい。 年寄りの勝手なお願いでは迷惑だろうけれど」と、ラリーは微笑んだ。
「年寄りだなんて」と、ドロシーは一瞬、いったいラリーは何歳になるのかしらと思った。 すかさずラリーが「あなたとは一五か二ハ歳離れていると思うよ。
メイが今年で五三歳になるところだった。 僕より一歳年上だったからね」と言葉を続けた。
ラリーの思考の中でメイが消えることはないのだと、そのときドロシーは思った。 ラリー・タンは、デザートの注文を取りにきたウェイターに、いつものようにアイスクリームの上にブルーペリーをたくさんのせてほしいと注文した。

しばらくして、それが彼の好物と知っているかのように、ウェイターが注文の品をテーブルに置くと、「これは結構おいしいんだ。 食べてごらんなさい」とラリーは注文の品をドロシーにも薦めた。
彼女は言われたとおりに試食した。 「うーん、たしかに、口の中で冷たくて甘いアイスクリームとブルーベリーの感触が入り混じっておいしいわ」と答え、ふたりはひとつのお皿から同時にスプーンを口に運んで顔を見合わせると微笑んだ。
そのとき、「ゃあ、ラリー、久しぶり」と、ラリーの背後から大きな声が聞こえ、ドロシーには逆光での黒い人影が目に入った。 よく見ると、部屋の向こう側から大きな男が手を上げて近づいてきた。
「ジョージ、元気かい」と、ラリー・タンは振り返るとすぐにテーブルから立ち上がり、ナプキンをいすに置くと、男を迎えた。 ふたりは握手を交わした。
「ジョージ、紹介しよう。 こちらは、ドロシー・ウォング。
ドロシー、この大男は昔の仕事仲間のジョージ・ルーカスだよ」とラリーはお互いを引き合わせた。 「初めまして、僕は、偶然にも有名な映画監督と同姓同名です。

が、ご覧の通り、まったく赤の他人です」とジョージは快活に笑って、ドロシーの手をとると、貴婦人にするかのごとく四本の指を軽く握った。 「ラリー、おととい、共和党の大きな大会があってね。
警備の厳しいことといったら尋常ではなかった。 一週間前から出席者全員の身元を調べ、当日も大変なチェックだったよ。
デイツク・チエイニーとキャンディがそれぞれ基調講演をして、とても感動的だった」と、ジョージ・ルーカスは、ロサンジエルスで聞かれた共和党のファンド・レイジングのパーティーの様子を興奮気味に話した。 「近いうちに連絡するよ、ラリー。
グッドナイト、ドロシー」と、ジョージは挨拶して立ち去った。 連れの数人が、ジョージを出口のところで待っていた。
タクシーを拾った。 「家まで送っていくよ」とラリーも車に乗り込んだ。
車中、「キャンディって誰のことかしら」とドロシーはたずねた。 ラリーが「右翼のジョージに言わせると、コンデリッサ・ライスのことなのさ」と答え、ふたりは噴き出した。
突然大きな笑い声がしたので、驚いたタクシーの運転手が後ろの席のふたりを振り返った。 ブッシュ大統領の補佐官として信任の厚いコンデリッサ・ライスは、いつもこわもての切れ者の黒人女性である。


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